6月7日・三位一体 ヨハネ3章16~18節  三位一体の神の真っただ中に

教会では聖霊降臨の次の主日には三位一体を記念します。聖霊降臨で父と子と聖霊の三位一体の神が出そろったので記念されるということですね。
今日のヨハネの福音は、ファリサイ派のニコデモという人の質問に、イエスが答えられた言葉として記されている最後の部分です。
ここで強調されているのは、父なる神が、わたしたちに永遠のいのちを与えるためにひとり子をお与えになったということです。このすぐ前の箇所に、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」とあることから、「父がお与えになった」とは、イエスの十字架のことが示されているということです。つまり、イエスの受難、復活、昇天、聖霊降臨と続く一連の出来事は、神の愛によるものであるということです。

ところで、三位一体の主日であるにもかかわらず、福音の中には父と子は出てくるのに、聖霊は出てきません。その代わりに「御子を信じる者」が出てきます。これは、わたしたちのことであり、教会のことです。
先週記念した聖霊降臨は、教会の始まりを表す出来事です。弟子たちが聖霊を受けてイエスから派遣され、福音を信じる者を増やしていくスタート地点でした。ですから、「御子を信じる者」のうちに聖霊が表されているといえるでしょう。

わたしたちにとって、三位一体の神秘を理解することはむつかしいかもしれません。父と子と聖霊が、どのような関係で、どのようにつながっているかを知ることは人間の理解を越えています。科学者が、分子の構造を調べるように、あるいは宇宙の構造を調べるようにはいかないでしょう。なぜ調べることができないのか?それは、わたしたちも三位一体の神秘の中に組み込まれているからです。
主の昇天の主日に、イエスの内にいるとイエスが見えない、ということを書きましたが、三位一体についても、同じことが言えます。三位一体の神が自分の外にあるのなら、その構造を見ることができるかもしれません。しかし、わたしたちも三位一体の神の交わりの中に組み込まれ、その真っただ中にいるのです。

三位一体の神秘は救いの神秘です。救いの対象であるわたしたち人類がいなかったら、神は三位である必要はなかったでしょう。わたしたちを教え導くために父は御子を遣わされ、御子は父を示してくださいました。十字架の死を通して父と子の人類への愛が表され、聖霊によって信じる者を増やし、神の国の完成へと導かれます。まさに「世が救われるため」の神秘です。神の望みは「世の救い」です。イエスを信じるわたしたちはその思いに応えるためにも、すべての人が三位一体の神の真っただ中にあることを告げ知らせる使命を受けているのです。                         (柳本神父)