5月31日・聖霊降臨 ヨハネ20章19~23節  聖霊は神と人、人と人を結ばれる

聖霊降臨というと、第一朗読の五旬祭の出来事が思い起こされますが、福音では復活されたイエスが弟子たちのもとに現れて聖霊を与えられたというヨハネの福音の箇所が朗読されます。これらの二つの出来事は、別々に起こったというより、同じ内容が違う表現で表されている考えることができます。そこでこれらの朗読箇所を比べながら聖霊降臨について考えることが必要です。

二つの朗読箇所に共通するのは、当然ですが「聖霊が弟子たちに与えられた」ということです。ヨハネの福音ではイエスが与えられる形で、使徒言行録では天から下る形で表現されています。初代教会では、「聖霊はだれの霊か」ということが議論されました。結論は、ニケア・コンスタンチノープル信条にもある通り、「父と子から出て」、つまり父の霊でもあり子であるイエスの霊でもある、ということです。これらの二つの朗読の内容は、そのような聖霊の本質を表しています。
そして、両方に共通するのは「派遣」ということです。ヨハネの福音では、「あなたがたを遣わす」とイエスが言われますが、使徒言行録にははっきりとは出てきません。しかし、「ほかの国々の言葉で話しだした」ということは、まさにほかの国々へと派遣されることを表しています。
かつて、わたしが小神学校にいたとき、一年先輩の大塚さん(いまの京都司教ですね)が、「バベルの人たちが塔を建てようとしなかったら英語で苦労することもなかったのに」とおっしゃっていました。ジョークですが、旧約聖書にはそれでいろいろな言葉に分かれたとされているわけですね。実は聖霊降臨においてはその逆のことが起こっています。いろいろな国の人々が自分の言葉で福音を聞くことができたのです。
わたしたちがそれぞれのことばで福音を聞くことができるのも、多くの先人の苦労のたまものです。ホセ神父もホン神父も日本での司牧のために一生懸命日本語を学ばれました。五旬祭のときに聖霊の力で他言語を話すことができたというよりも、いろいろな国の人々に福音を伝えたい、という気持ちを聖霊が支えてくださるということではないでしょうか。

イエスが弟子たちを派遣されるときに「誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われます。弟子たちやわたしたちには人の罪を赦す権限が与えられているのでしょうか。そういう意味ではなく、「ゆるし」は神と人、人と人との関係の回復です。わたしたちのまわりにも、人との関係、神との関係の回復を求めている人々が大勢います。五旬祭の出来事からもわかるように、聖霊は、その関係回復をなしとげてくださる方であり、聖霊を受ける者はその関係回復に奉仕する者です。新型コロナウイルスの感染拡大によって人と人、神と人との関係が困難な状況の今こそ、聖霊が働いてくださるよう、祈り求めなければなりません。                   

(柳本神父)