12月14日「待降節第3主日」聖書

12月14日のミサでは、イザヤの預言(35・1)、使徒ヤコブの手紙(5・7―10)、そして福音書朗読からは、マタイ(11・2―11)からそれぞれ御言葉を学びました。

イザヤ書(35-1)

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられ

カルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。

心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」

そのとき、見えない人の目が開き、

聞こえない人の耳が開く。

そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと逃しみは逃げ去る。

主は確実な形で現実を変えられ、決して抽象的でなく、具体的な被造物の美をもその目的のために使われことがこの個所ではよくわかります。私たちは、神の御計画を完全に把握することはできませんが、鹿躍るように喜び、主の御力に信頼して生きることはできます。

ヤコブの手紙(5.7-10)

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地のいりを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く供ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち主の名よって語った預言者たちを辛抱と忍耐の模範としなさい。

使徒ヤコブは私たちに忍耐を説きます。しかし、それは不可能な目標のために呻吟することではなく、農夫が、作物が育つのをじっと待つようにその時々の実りを生きるということでしょう。

マタイ(11.2-11)

そのとき、ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについ話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。頭言者以上の者である。

『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わしし、あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

福音朗読では、主の救いの計画が確実に進んでいることを学びました。洗礼者ヨハネは旧約時代の最大の預言者ですが(イエスの到来を準備するという意味において)、イエスが誰であるのか完全な形で理解することができませんでした。私たち信徒も待降節にあたり、主のご誕生が霊的にも歴史的にもどういうものであったのか完全に悟ることはできませんが、闇に光がともるように黙想を深めて行きたいと願っています。

アーメン。