6月28日・年間第13主日 マタイ10章37~42節  教会―十字架を担って従う家族

今日の箇所はちょっと受け入れがたい内容かもしれません。律法でも父母を敬え、と言われていますし、家族を大切にすることがなぜいけないのかと疑問に思われる方も多いことでしょう。
今日の部分は先週に続くところです。イエスが弟子を派遣するにあたり、迫害がされる覚悟を求められている内容です。今日の箇所のすぐ前には「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」ということばがあります。そして、家族が敵対する可能性を告げられます。したがって、今日の箇所は「迫害」という前提で考える必要があります。

あるシスターが分かち合ってくださったのですが、ご自分が修道会に入会するとき、父親は猛反対され、「勘当だ!帰ってくるな」と言われたそうです。しばらくして「家に来るなら私服で来い」。そして最後は認めてくださったそうです。迫害とは言えないでしょうが、召命を通して家族との新しい関係ができたわけですね。
イエスが言われる「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」というのは、神との関係を通して家族との新たな関係を築くという意味かもしれません。また、「家族がいちばん大事」と言われたとき、家族のいない人や孤独な人はどう思うでしょう。イエスは常に、社会の中で「こんな境遇にはなりたくない」と思われるような人々のことを考えておられたのです。

先日、東京教区の晴佐久神父と電話で話していたのですが、そのときに「新型コロナで教会と司祭のあり方が問われている」という話題になりました。司祭は日曜日に教会で信者が集まるのを待ち、ミサをして会議に出るのを仕事にしていました。しかし教会に人が来なくなると司祭はすることがなくなります。また、信者も集まることができなくなると、何をもって信仰のしるしとするかが問われます。
教会は血のつながりではなく、信仰のつながりによる家族です。家族にはいろいろな形があります。寝食をともにするだけが家族ではありません。離れていてもお互いを思いやる家族もあります。しょっちゅう喧嘩していても困ったときには頼ってしまう家族もあります。家族関係で悩む人もいます。いろいろな家族がありますが、わたしたちの人生の出発点は家族であることは間違いありません。

緊急事態宣言のもとで、わたしたちは家族として何に飢え渇き、何を支えとし、何によってつながっている体験をしたでしょうか。新しい気づきはあったでしょうか。これらの体験を生かすことによって、教会も新しい家族の関係を作っていくチャンスが与えられています。こうして教会は、「自分の十字架を担ってわたしに従う」家族となっていくのではないでしょうか。                           (柳本神父)